時言時論
   
「分断」から「共生」へ
コロナ社会を「利他」の心で
 
  鹿児島県医師会長 池田哉   
   
          
 鹿児島県で新型コロナウイルスの感染者が初めて報告されてから、一年が経った。この間、医療従事者は過酷な状況のなかで、感染防止から診療に至るまで懸命に取り組んできた。その献身的な活動に改めて感謝し、敬意を表したい。しかし、コロナの出現により社会が分断され、孤立する人々が増えた。収束後はどんな価値観や生き方が求められるのか、だれも明快な答えを出すことができない。

コロナ「撲滅」ではなく、「共生」を

 私が、コロナと関わってきた体験から得たものは、コロナの「撲滅」ではなく、コロナとの「共生」である。コロナは簡単には消滅しないし、今回は収束したとしても、10年後、100年後には、また強烈なウイルスが現れて、人類を苦しめる。長い感染症の歴史のなかで、人類が唯一根絶できたのは天然痘だけである。ウイルスと感染症の関係についてもさらに検証を深め、次に備えることを忘れてはならない。それはまた、利便を求め続けてきた我々の生き方を見直すいい機会だと考えることもできる。

いたるところで起こる「分断」

 この一年の闘いで、我々はコロナとの付き合い方を学んできた。ウイルスがこの世に広がり続けたとしても、人間が滅亡してしまう事態は絶対に避けなければならない。しかし、ウイルスを敵視して撲滅を目指しても空しい結果に終わる。共生の道を探るほかない。人類の英知と知見を最大限生かし、ウイルスから謙虚に学ぶことができれば、必ずや道は開けると信じる。人類には、科学というすばらしい知恵があるのだから。

 医療人としてだけではなく、私が一市民として心を痛めているのが、コロナによって引き起こされた「分断」の構図である。治療を終えて社会に出てきた感染者や、医療機関の職員に対する偏見と差別、飲食店など感染のリスクが高いとされるところを「急所」と表現する配慮のなさ、さらには、「自粛警察」とか「マスク警察」にみられる、「他者」の排除など、いたるところで「分断」が起こっている。

 日本医師会の「医療従事者に対する風評被害緊急調査」によると、全国から700件もの「被害あり」との回答が寄せられ、「保育園に子供の預かりを拒否された」という訴えもあった。過酷な状況下で仕事をしている医療従事者への、許すことのできない卑劣な行為であり、ここにも「分断」と「排除」の現実がある。世代間でもそうだ。「感染しても、大事に至らない若者がコロナをまき散らしている」と憤る高齢者がいる一方で、「俺たちはコロナにかからない」とマスクもせず、3密も気にかけない若者もいる。

 さらに、新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)や「感染症法」の改正は、私権の制限にも繋がる法改正だけに、慎重な扱いが求められる。罰則規定が設けられたことに対する「賛否」そのものが「分断」に繋がっていく可能性を孕んでいる。政府の方針に従わない者に罰を与えることも、事例によっては必要かもしれない。だが、今は国民が一丸となって、コロナ対策を熟慮する時であり、対立し、分断を招く時ではない。そしてまた、コロナとの共生の道を探る時でもある。

「利他」を忘れない社会を

 仏教の書物の中に「自利利他」という教えがある。「自利」とは自分が幸福になること、「利他」とは他人を幸福にすることだと言う。他人の幸せを祈り、他人の成功を称賛する。他者をねぎらい、些細なことでも感謝の言葉を口にする。コロナで言うならば、感染者の悩みや苦しみに思いをはせ、早く社会復帰ができるように、一緒に考え、行動することであろう。

 我々はコロナ禍で、人間の弱さを教えられ、誰しもに「排除」の心があることを思い知らされた。だからこそ、今「利他」の精神が求められるのではないだろうか。コロナ収束後は、人と人との係わりが希薄になり、「集団」より「個」を重んじる社会が待っているのかもしれない。新しい秩序が生まれるだろうが、「利他」を忘れることのない、人と人、心と心が通いあう社会であって欲しいと願っている。

 国のデジタル化推進政策のなか、コロナ禍の影響もあって、医療においては、オンライン診療をはじめとして、IT化が積極的に進められようとしている。良質で適切な医療が提供でき、安全性、有効性を高める方向であるならば望ましいが、医療費の抑制や、生産性・効率性の向上だけに関心が向けられることは、避けなければならない。たとえデジタル社会がやってきたとしても、医療、教育、環境、福祉などの社会的共通資本は人類、社会を守るための土台であることに変わりはなく、その土台を強固なものとしていかなければならない。

 吉田兼好の徒然草( 第九十三段)に、「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び日々に楽しまざらんや」とある。(木村耕一:こころ彩る徒然草、1万年堂出版)

 どのような時代であっても、“生まれてきてよかった、生きることは素晴らしい”、と思える日々を、過ごしていきたいものである。