年 頭 所 感
 
「医師会病院創設」で知る「温故知新」

   鹿児島県医師会長 池田哉  

          
 2024年は辰年である。今年も無事元旦を迎えることができた。太陽が昇り、昇龍が駆け、機運が上昇する、そんな素晴らしい年になることを願いたい。
 新しい年になり毎年決まって考えるのは、地域医療のこれからである。
 一昨年から日医の、共同利用施設検討委員会の委員長を仰せつかっている。年明けには、松本吉郎会長の諮問に対する答申を出さねばならない。会長諮問は「次世代に託す医師会共同利用施設の使命〜かかりつけ医機能支援と医療・保健・介護・福祉の充実〜」であり、少子高齢化と人口減少時代を迎えた今、まさに時宜を得たテーマだと言える。地域医療に携わる私にとっては、重要な課題の一つである。

 医師会病院設立の提唱者は、日医の武見元会長 

 医師会病院等共同利用施設設立の提唱者は、日本医師会の11代目の会長武見太郎先生である。先生がどんな思いでこの施設の設立に関与されたのか知りたくて、過去の資料を再度読み返してみた。
 戦後まもない昭和25年に打ち出された武見先生の医師会病院構想は、国民のウェルフェア、ウェルビーイングを第一に、それを支える開業医、かかりつけ医をあらゆる面で支援することが、目的であった。その根幹には国民の生命と健康を守り抜く、という強い意志があり、医療だけではなく、健康教育、学校保健、産業保健、老人保健など地域医療の計画に医師会病院が積極的にかかわり、その向上に主導的役割を果たすことも企図していた。このように医師会が医師会病院等共同利用施設を通して、地域社会活動を強力に推進することで、文化国家における学術専門団体である医師会という存在に、国民が確固たる信頼を持つようになると述べている。
 また、その先には医師会病院の全国ネットワーク化の推進がある。
 昭和40年代に入ると、この「武見思想」、「武見イズム」を医師会活動の基本理念とした地域医師会が相次いで医師会病院を設立した。鹿児島県においては、昭和42年に川内市医師会中央病院(現:川内市医師会立市民病院)、56年には、肝属郡医師会立病院と大島郡医師会病院、59年には曽於郡医師会立病院(現:曽於医師会立病院)と鹿児島市医師会病院、61年には、薩摩郡医師会病院、62年には、垂水市立医療センター垂水中央病院と串木野市医師会救急医療センター(平成2年:串木野市医師会立脳神経外科センターに名称変更、現:いちき串木野市医師会立脳神経外科センター)、平成元年には、出水郡医師会立阿久根市民病院(国立療養所阿久根病院移譲、現:出水郡医師会広域医療センター)、平成9年には、曽於郡医師会立有明病院(国立療養所志布志病院移譲、平成25年:曽於医師会立有明病院)平成11年には、出水郡医師会立第二病院、平成12年には、霧島市立医師会医療センター(国立療養所霧島病院移譲)が開院した。
 なお、曽於医師会立有明病院は令和3年に閉院(曽於医師会立病院へ吸収・合併)し、現在県内には医師会立病院が11カ所ある。また、現在全国には、65の医師会立病院があり、九州圏内は32カ所である。
 武見会長時代最後の6年間理事を務め、医師会病院設立に携わった弓倉藤楠先生は、その著書のなかで「肝属郡医師会立病院は、大隅半島南部の地域医療を全面的によみがえらせ、住民の医療へのアクセシビリティーを大幅に高めた。大島病院は奄美諸島の老人医療を一手に引き受けている」と記していた。また薩摩郡医師会に関しては、「従来の医療法人病院を解散して、医師会病院に移行するという新しい形を生み出した」と評価している。
 武見先生が常に見据えていたのは、地域医療の将来であり、そのなかで医師会の公的役割を常に考えていた。医師会病院を造ることでMRIなどの高度医療機器を開業医が利用しやすくなり、検査センターは民間業者との価格競争において、ある程度抑制がかかるという目論見もあったに違いない。そして、地域の文化、歴史、慣習、その地域の疾病構造の特異性などを十分に分析することの必要性も訴えていた。


 時代とともに、病院の在り方も変化 

 翻って、現在の医療の状況は当然のことながら、武見会長の時代とは異なる。
 時代の変遷とともに、医療の在り方、医師会病院の診療にも変化がでてきており、それに見合った医療体制が求められる。時代のニーズ、地域住民のニーズ、会員のニーズを適時に調査して、それらの情報を基に、医師会病院を始めとして検査部門、健診部門、老健等施設部門、看護ステーションなどをどんな方向に進めれば良いのか常に検討し続けなければならない。
 だが、今どれほどの医師会が変化に対応した体制づくりを実践しているのだろうか。会員は自分たちのこととして考えているだろうか。医師会組織に対する気持ち、思いが少しずつ希薄になりつつあることを感じざるを得ない。この事実は、医師会の弱体化にもつながると強い危機感を抱いている。
 武見先生はあの時代に、国民のこと、会員のことを自分のこととして考え、実践している。
 昭和55年2月の日本医師会病院学会で、「人間性と技術の集積というものを結合していくところに、日本医師会の病院政策が基本的に存在する。今いろんなシステムが出てきているが、私が見たアメリカのシステムは人間本位ではなかった。人間性と技術集積の結合によって、はじめてシステムも生きる。医師会病院は単なるシステム化を理想とした病院ではなく、人間性とシステム科学の両立した技術集積であると考え、提案した」と述べている。
 私自身も、平成23年にアメリカのバージニア州ノーフォークにある統合ヘルスケアネットワークの一つであるセンタラヘルスケアを視察に行ったが、アメリカのシステムをそのまま導入するのではなく、日本文化を背景とした日本独自の医療システムを進化させていけばと思っている。武見先生の先見の明には感服するばかりである。


 
地域に支えられた準公的な施設 

 医師会病院は、医師会だけではなく、地域住民や地方自治体からも支えられた準公的な施設であり、将来的には医師会会員だけではなく、地域住民、地方自治体にも参画を求め、地域の「健康」という財産を守り、発展させていく存在になるべきだと考える。そのためには、医師会病院を含めた共同利用施設が中心となって、地域自治体、医療・福祉・保健の関係者が連携しなければならず、その手段の一つとして、地域医療連携推進法人の設立がある。
 医師会病院を含めた共同利用施設を一つの大きな柱とし、会員とのコミュニケーションをさらに密にするならば、未来が展望できる医師会組織になれると私は確信している。そうなるためのキーワードは「社会情勢への迅速な対応と、地域住民のニーズを十分に踏まえ求めに応じて行くこと」である。もとより地域医療を死守するという強い信念のもと、「医師会、大学、行政の連携」は言うまでもない。
 武見先生の「思想」と「政策」はこれからの時代の医療の在り方を、あの時代にすでに予見していた。その思いを後世に伝えていくのが、今を任された我々の重要な責務でもある。
 「温故知新」。武見先生の思いを知れば知るほど、武見イズムを大本とし、医師会のさらなる進化に向けて歩み続けなければと思う。